クロスズメバチは、その攻撃性から、多くの地域で危険な害虫として恐れられています。しかし、日本の、特に長野県や岐阜県、愛知県といった中部地方の山間部では、このクロスズメバチが、古くから貴重な「山の幸」として、人々の暮らしと深く結びついてきた、全く異なる顔を持っています。この地域では、クロスズメバチの巣の中にいる、乳白色の幼虫や蛹を、「へぼ」や「じばち」、「すがれ」などと呼び、伝統的な郷土料理の食材として、珍重してきたのです。この独特の食文化は、山々に囲まれ、かつてはタンパク源が乏しかった地域で、生きるために編み出された、先人たちの知恵の結晶とも言えます。クロスズメバチの幼虫や蛹は、タンパク質やビタミン、ミネラルを豊富に含み、栄養価が非常に高い食材です。その味は、クリーミーで、ナッツのような濃厚なコクがあり、一度食べると病みつきになる、とさえ言われています。最もポピュラーな食べ方は、甘辛い醤油と砂糖で煮付けた「甘露煮」です。炊き立てのご飯に、このへぼの甘露煮を混ぜ込んだ「へぼ飯」は、秋の味覚として、今なお多くの人々に愛されています。また、炒り付けにしたり、五平餅のタレに混ぜ込んだり、あるいは素揚げにして塩を振って食べたりと、その調理法は様々です。この食文化を支えているのが、「蜂追い」と呼ばれる、熟練の技術を持つ人々です。彼らは、秋になると、蜂の足に目印となる綿などを結びつけ、その飛行ルートを、山の中を駆け巡りながら追跡し、地中にある巣を探し当てるという、驚異的な狩りの技術を持っています。近年では、この「へぼ」を愛好する人々が集まり、自ら育てた巣の大きさを競い合うコンテストが開かれるなど、伝統文化として、その価値が再認識されつつあります。害虫として恐れられる一方で、貴重な食材、そして文化として愛される。クロスズメバチは、人間との関わり方一つで、その姿を大きく変える、非常に興味深い生き物なのです。